春といえば新しい生活を始めるシーズン、心機一転で住まいを変える方が多い時期でもあります。引っ越しでよく聞くトラブルに、「敷金」にまつわるものがあります。
これまで住んでいた住居を引き払う際に踏む恐らく最後のステップとなる敷金のやりとり、認識の違いや知識不足のためにいざこざへ発展するケースが多いようです。
今回は、気持よく新生活を始められるよう、敷金にまつわるよくあるトラブル事例を3つとその留意点を紹介したいと思います。
■事例1
敷金として3か月分を支払いましたが、契約書を良く見ると「契約終了時1か月償却」と書かれています。これはどういう意味でしょうか?
「敷金」とは、賃貸人(大家)が、部屋を貸す際に、例えば、賃料を支払ってもらえなかった場合に敷金から充当して賃料を確保すること等を意図して賃借人(入居者)から預かるもので、いわば賃料等の「担保」としての意義があります。
「担保」ですから、無事に契約が終了し、明渡しが完了したときは、全額を賃借人に返さなければならないのが原則です。
これに対し、「契約終了時1か月償却」という条項は、いわゆる「敷引特約(しきびきとくやく)」と呼ばれるもので、要するに「預かった敷金のうち1か月分は返しません」という意味ですので、敷金3か月のケースでいえば、2か月分しか返ってこないことになります。
では、敷引特約は法律上当然に有効なのでしょうか?消費者契約法10条では、「消費者の利益を一方的に害するものは、無効とする」と定められているため、敷引特約が消費者契約法10条により無効とならないかが実務上しばしば争われています。
これについて、近時最高裁判決が出され(平成23年3月24日判決)、「敷引特約は、当該建物に生ずる通常損耗等の補修費用として通常想定される額、賃料の額、礼金等他の一時金の授受の有無及びその額等に照らし、敷引金の額が高額に過ぎると評価すべきものである場合には、当該賃料が近傍同種の建物の賃料相場に比して大幅に低額であるなど特段の事情のない限り、信義則に反して消費者である賃借人の利益を一方的に害するものであって、消費者契約法10条により無効」と判示しました。
要するに、敷引特約も一切無効というわけではないが、敷引(償却)される金額次第では無効になるよということです。
具体的には、借りていた期間等にもよりますが、総じて月額賃料の2か月~3.5か月分以内であれば、敷引特約も有効とされています。
したがって、この事例のように1か月分の償却であれば、賃借人としては通常は拒むことはできないと考えられます。
■事例2
タバコのヤニで壁が変色していたため、大家より「『特別損耗』にあたるから壁紙を張り替えて欲しい」「張り替えなければ張替え費用と敷金を相殺する」と言われました。確かに私はタバコを吸い、壁がヤニで黄ばんでいることは確認できましたが、壁紙を張り替える必要などあるのでしょうか?
賃貸契約において賃借人は「原状回復義務」というものを負っています。ここでいう「原状」とは、「入居時と同じ状態」という意味ですので、原則として、賃借人は、退去時に、入居時と同じ状態に回復してから建物を退去する義務を負っています。
ですから、例えば、賃借人の不注意で、部屋の中の備え付けの棚を壊したのならこれを修繕する義務がありますし、白い壁の色をペンキで赤色に塗ってしまったのであれば、これを白い壁に戻す義務があります。
もっとも、建物の劣化の種類は、大きく、(1)経年劣化(住んでも住まなくても生じる劣化)、(2)通常損耗(人が住めば当然生じる劣化)、(3)特別損耗(入居者の特別な使用方法に起因する劣化)に分けられ、このうち賃借人が「回復」しなければならないのは、原則として(3)のみです。
なお、(2)についても特約により賃借人に回復義務を負わせることは不可能ではありませんが、その範囲を賃借人が予め明確に認識していることが必要ですので(最高裁平成17年12月16日判決)、このようなことはあまり想定できないと思われます。
問題は、タバコのヤニが(2)(3)いずれにあたるか否かですが、これについては程度にもよるものの、判例上、多くの場合、「タバコのヤニによる変色でクロス洗浄でも除去できない程度のもの」は、(3)の特別損耗にあたるとされており(神戸地裁尼崎支部平成21年1月21日判決、東京地裁平成21年5月21日判決等)、賃借人には回復義務すなわち壁紙の張替え義務が生じると考えられます。
もっとも、大阪高裁平成21年6月12日判決では「クロスのように経年劣化が比較的早く進む内部部材については、特別損耗の修復のためその貼替えを行うと、必然的に、経年劣化等の通常損耗も修復してしまう結果となり、通常損耗部分の修復費について賃貸人が利得することになり、相当ではないから、経年劣化を考慮して、賃借人が負担すべき原状回復費の範囲を制限するのが相当である」としていますので、この場合でも、賃借人は壁紙張替え費用を全額負担する必要はなく、一定範囲でのみ(同判例では1割)負担すれば良いことになります。
したがって、タバコのヤニによる変色が通常の洗浄で除去できない程度に達している場合には、壁紙張替え費用のうち一定金額を敷金から控除されてもやむを得ませんが、賃借人が全額の費用を負担する必要は通常はないでしょう。
■事例3
家賃月額16万円の部屋を借り、敷金を1か月分支払いましたが、退去時に「ルームクリーニング代(消毒代)」として敷金から6万円を引かれ、結局10万円しか敷金を返してもらえませんでした。2年くらいしか住んでおらず、部屋の状態は入居時とほとんど変わっていません。このような場合でも「ルームクリーニング代(消毒代)」を負担しなければならないのでしょうか?
これはいわゆる「基本清掃料特約」と呼ばれるもので、事例1の敷引特約同様、消費者契約法10条により無効ではないかが実務上しばしば争われます。
この点、事例2で述べたとおり、賃借人は、特別損耗については回復義務を負うため、ルームクリーニングが「特別損耗」部分のクリーニングであればこれを賃借人の負担とすることに問題はありませんが、事例3では、クリーニング箇所が特定されておらず、「通常損耗」部分のクリーニング費用に充てられる可能性もありますので、「ルームクリーニング代」として一律に賃借人に負担させることが、賃借人たる消費者の利益を一方的に害しないかが問題となります。
これについて京都地裁平成24年2月29日判決は、「(清掃料を)具体的な一定の額とすることは、通常損耗に含まれる汚損の回復の要否やその費用の額、さらには、通常損耗に含まれない汚損の原状回復費用との分担をめぐる同様の紛争を防止するといった観点から、あながち不合理なものとはいえず、本件基本清掃料特約が信義則に反して賃借人の利益を一方的に害するものであると直ちにいうことはできない」とし、月額賃料及び共益費の2分の1程度に止まる一律の清掃料につき有効と判示しました。
したがって、契約書において予め「ルームクリーニング代(消毒代)」「基本清掃料」等として金額が具体的に一定額で明記されている場合で、かつその額が月額賃料の2分の1以下に止まっているような場合には、原則として当該条項も有効とされる可能性が高く、敷金から差し引かれても仕方ないといえるでしょう。
もちろん、定められた「ルームクリーニング代」の金額が不相当に過大である場合には、その範囲で契約条項は無効になると考えられます。
以上、引っ越し前にぜひとも知っておきたい敷金トラブルの事例を3つ、お伝えしました。必要な知識を蓄えて、気持ちのいい新生活を始められるようにしたいものですね。